


『方丈記』の作者鴨長明は平安時代末期、京都下鴨神社の神職鴨長継の次男として生まれます。わずか7歳で従五位下という位に叙せられ、将来を期待されていました。
芸術方面でも目覚しい活躍をします。和歌を俊恵法師に、琵琶を中原有安に、いずれも当時一流の大先生に習います。
また、後鳥羽院が『新古今和歌集』を編纂するために再興した「和歌所」の寄人(職員)に選ばれたり、とにかく前途洋洋でした。
ところが父長継が若くして亡くなると、長明の将来にもかげりが見え始めます。下鴨神社の神職という強力な父の後ろ盾がなくなり、生活は苦しくなっていきます。

長明のたっての願いは、父の跡をついで神社の禰宜になることでした。
1204年(元久元年)長明が長く希望していた河合社(ただすのやしろ)の禰宜に欠員が生じます。後鳥羽院は長明の和歌や音楽の才能、また和歌所での勤務を高く評価していたので、ここぞと長明を推薦します。
これで父の跡をつげる。神職につけると、長明の心は躍ります。ところが同族の鴨祐兼から待ったの声がかかります。長明は職務怠慢で神職にはふさわしく無いと。
結局、鴨祐兼の横やりによって、長明は河合社の禰宜になることができませんでした。
後鳥羽院は「ならばかわりに」ということで別の神社を河合社と同格に格上げして、その禰宜に長明を推します。絶対権力者・後鳥羽院がそこまでしてくれるというのは、破格のことでした。しかし、長明は後鳥羽院の推薦をキッパリことわります。
長明の希望は、あくまでの「父の跡を継ぐこと」でした。どんなに対等な条件を出されても、父の跡を継ぐのでなければ意味がなかったのです。長明は頭をまるめて出家してしまいます。
絶対権力者・後鳥羽院の好意を無にしてまで父の跡を継ぐことにこだわった長明。「こはごはしき心」(がんこ者、偏屈者)と評されています。
たしかにガンコで要領の悪いことですが、こういう一途さが、長明の憎めないところでもあると思うのです。

長明のこの憎めない人間くささは『方丈記』の中にもよくあらわれています。山にこもって、仏さまに帰依して、朝夕念仏をおこたらない…『方丈記』はそんな真面目な内容では無いのです。
聖人君主では無く、出家してなお俗世間への未練を持っています。歌や音楽に執着し、たまに都に降りれば自分のみすぼらしい服装を恥じ、すぐに「いやいや、世間のわずらわしいゴタゴタからすると、ずっとマシだ」などと自分を納得させる…その俗物っぷり。
またはこういうのんびり生活に執着することこそ悟りへの道をさまたげるのだ。お前は何だ、住まいだけは聖人君主だが、心は濁りきってるじゃないか、などと自問自答したり…。
悟りきれない、聖人君主になれない、長明の人間くさい部分が、格調高い文体のむこうに浮かび上がってきます。
この悟りきれない人間くささこそ、今日まで『方丈記』が共感をさそい、読み継がれている理由の一つなのではないでしょうか。